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今川・徳川・武田・北条といずれも戦国時代を代表する有名武将ばかり。
今回の特集では、“井伊直虎と戦国武将” というテーマで、
名将・知将たちがしのぎを削った舞台である静岡の魅力を紹介します。
戦乱の静岡、一族の危機
苦難の中、城主となった井伊直虎
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天下統一を求めて、武将たちが群雄割拠した戦国時代。奥浜名湖の井伊谷(いいのや)を本拠地としていた井伊家もまた、激動の世に翻弄される日々を送っていました。周囲には、勢力拡大を目論む甲斐・信濃の武田家、駿河・遠江の今川家。井伊家は今川勢に服従していましたが、今川勢が桶狭間の戦いで織田勢に思いがけず敗れると、井伊家は大混乱。数々の策略や合戦により、跡取りとなるはずの男たちが次々と命を落とすという悲運に見舞われます。そんな一族断絶の危機を救うために立ち上がったのが、女城主・井伊直虎(いいなおとら)です。
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- 浜松駅[龍潭寺]
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直虎の生涯と同時代の
武将と女性たち
井伊直虎の波乱に満ちた生涯。その断片は、同時代を生きた戦国
武将や女性たちに見ることができます。彼らのエピソードと
現代の静岡に残る史跡から、井伊直虎の足跡に思いを馳せます。
数々の武将たちが天下を賭けこの地で争う、そのとき直虎は…
群雄割拠の舞台 静岡









- 三河国・松平郷(現在の愛知県豊田市)を支配した豪族・松平家がルーツ。その9代目となる家康公が桶狭間の戦いの後「徳川」に姓を改め、初代当主となりました。家康公は関ヶ原の戦いに勝利したのち征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を創設。三男・秀忠公に将軍職を譲った後も「大御所」として実権を握り、徳川家による政権基盤をゆるぎないものにしました。以後、徳川将軍家は第15代・慶喜公の大政奉還まで武家政権を存続。約270年の泰平の世を実現させました。
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- 静岡駅[久能山東照宮]
- 徳川家康公を祀る神社。壮麗な社殿は圧巻。
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- 浜松駅[浜松城]
- 出世城とも呼ばれた徳川家康公ゆかりの城。
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- 静岡駅[駿府城公園]
- 徳川家康公の像が見守る城址公園。
2017年6月7日更新
- 代々駿河守護を務める家系で、足利将軍家から派生した名門。今川氏親とその後見役・北条早雲の時代に領地を拡大しました。続く義元の代でも領国経営に辣腕を振るい、財政基盤を固めて軍事力を強化。井伊家や松平家などを服従させ、「海道一の弓取り」と讃えられるほどにその武名を轟かせました。全盛期には駿河・遠江・三河を支配下に置き、尾張にも侵攻しましたが、桶狭間の戦いでは義元が討死。その後、武田信玄や徳川家康の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡しました。
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- 静岡駅[静岡浅間神社]
- 今川家や徳川家が大切にした富士山信仰の神社。
境内には、今川家に関する貴重な資料を収蔵・展示する
静岡市文化財資料館があります。
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- 掛川駅[掛川城]
- 今川・武田・徳川軍による争奪戦の舞台となった城。
2017年6月7日更新
- 平安時代から続く源氏氏族の武家。甲斐を拠点としていた武田信玄は、父・信虎が隣国駿河へ出かけた際に国境を封鎖、家督を継承しました。戦では戦国最強の騎馬隊と恐れられるほどの采配を振るう一方で、卓越した領国経営を展開。信玄堤に代表される治水事業や鉱山開発も積極的に推し進めました。信玄が志半ばにして病に倒れた後は子の勝頼が奮闘、一時は広大な領地を獲得しましたが、「長篠・設楽原の戦い」で織田家・徳川家連合軍に大敗。有能な家臣たちを次々と失い、滅亡しました。
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- 浜松駅[三方ヶ原古戦場]
- 武田信玄が徳川家康と激突し、大勝した戦いの地。
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- 浜松駅[二俣城址]
- 武田軍が徳川軍に仕掛けた「二俣城水の手攻め」の舞台。
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- 掛川駅[高天神城跡]
- 武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を
繰り広げた山城。
2017年6月7日更新
- 初代の北条早雲は戦国大名の先駆けといわれ、戦国の世を開いたとされる知将。伊豆一国を平定した後、相模(現・神奈川県小田原市)にも進出し、関東支配の礎を築きました。3代目・氏康の時代には上杉謙信や武田信玄と幾度となく対戦する一方で、城下町の整備にも着手。多くの人材を招くなどして文化や産業を発展させました。豊臣秀吉の小田原攻めの際には、まち全体を囲む巨大な総構を築き備えましたが、籠城の末に降伏。北条家の栄華は終わりを迎えました。
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- 三島駅[山中城跡公園]
- 戦国時代末期1560年代に北条氏により
築城された山城の跡。
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- 新富士駅[富士山本宮浅間大社]
- 北条氏も大切にした富士山信仰の中心。
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- 三島駅[韮山城跡]
- 北条氏規が100日あまりの籠城戦を行った城。
2017年6月7日更新
- 三河国・松平郷(現在の愛知県豊田市)を支配した豪族・松平家がルーツ。その9代目となる家康公が桶狭間の戦いの後「徳川」に姓を改め、初代当主となりました。家康公は関ヶ原の戦いに勝利したのち征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を創設。三男・秀忠公に将軍職を譲った後も「大御所」として実権を握り、徳川家による政権基盤をゆるぎないものにしました。以後、徳川将軍家は第15代・慶喜公の大政奉還まで武家政権を存続。約270年の泰平の世を実現させました。
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- 静岡駅[久能山東照宮]
- 徳川家康公を祀る神社。壮麗な社殿は圧巻。
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- 浜松駅[浜松城]
- 出世城とも呼ばれた徳川家康公ゆかりの城。
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- 静岡駅[駿府城公園]
- 徳川家康公の像が見守る城址公園。
2017年7月13日更新
- 三河国・松平郷(現在の愛知県豊田市)を支配した豪族・松平家がルーツ。その9代目となる家康公が桶狭間の戦いの後「徳川」に姓を改め、初代当主となりました。家康公は関ヶ原の戦いに勝利したのち征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を創設。三男・秀忠公に将軍職を譲った後も「大御所」として実権を握り、徳川家による政権基盤をゆるぎないものにしました。以後、徳川将軍家は第15代・慶喜公の大政奉還まで武家政権を存続。約270年の泰平の世を実現させました。
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- 静岡駅[久能山東照宮]
- 徳川家康公を祀る神社。壮麗な社殿は圧巻。
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- 浜松駅[浜松城]
- 出世城とも呼ばれた徳川家康公ゆかりの城。
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- 静岡駅[駿府城公園]
- 徳川家康公の像が見守る城址公園。
2017年7月13日更新
女城主となるに至るまでも、波乱の半生を過ごした直虎。幼い姫君だったころ、許婚の井伊直親(いいなおちか)の失踪を受けて、龍潭寺で出家したことは、語り継がれる悲しい出来事でした。しかし、直虎の出家から10年ほど経った後、その生死も行方もわからなくなっていた直親が井伊谷に帰還。諸説ありますが、直親はこの時すでに井伊家の重臣・奥山朝利の娘と結婚していたといわれています。
やがて、直親が家督を継ぎ、井伊家も安泰と思われた矢先、直親は生まれたばかりの子・直政(なおまさ)を残して殺害されてしまいます。一族の男たちが相次いで亡くなり、もはや成人した後継ぎのいなくなった井伊家。そこで、井伊直虎が世俗に戻り、直政の後見役となる形で城主となったのです。
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- 浜松駅[龍潭寺]
女城主となった直虎は、聡明な判断で井伊家を存続させました。主家である今川家が、井伊谷の家臣や商人を破産に追い込む法令「井伊谷徳政令」を出した際は、その執行を先延ばしにし、混乱を回避。また、15歳の直政を徳川家康と対面させ、井伊家の運命が好転するきっかけを作りました。
直政はこの対面をきっかけに、家康の身の回りの世話をする小姓として仕え、のちに徳川四天王のひとりと呼ばれるまでに活躍。直虎は、直政の活躍と井伊家の再興を見守りながら、その生涯を終えました。直政、そして井伊谷への熱い思い。直虎の生涯をたどると、愛をもって時代を強く生き抜いたその姿が感じられるようです。
2017年7月13日更新
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- 静岡駅[駿府城公園]
駿府城跡の発掘調査では、金箔の瓦など、当時の今川家の暮らしを想像させるものが出土しています。荒廃の進む戦国の世で、今川館を中心としたこの地に小京都が再現されていたことは想像に難くありません。時を同じくして井伊家の家督を継いだ直虎も、こうした文化に触れ親しんだのではないでしょうか。直虎が今川館へ出仕したという資料こそありませんが、今川家で権勢を振るった寿桂尼に呼び出されていた可能性はぬぐえません。その用事が今川家から井伊家への無理難題だったにせよ、今も夜の駿府城から見える美しい月を眺めながら、訪れたことのない京都の雅な様子を思い描いていたのかもしれません。
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- 静岡駅[龍雲寺]
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- 静岡駅[静岡浅間神社]
2017年7月13日更新
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- 浜松駅[太刀洗の池]
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- 浜松駅[出世飯]
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- 浜松駅[遠州綿紬(ぬくもり工房)]
2017年7月24日更新
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- 浜松駅[三方ヶ原古戦場]
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- 浜松駅[犀ヶ崖古戦場]
2017年7月24日更新
後に徳川家康の腹心の家臣として「徳川四天王」に名を連ねる井伊直政。別名「井伊の赤鬼」。あまねく人々に畏れられ、また敬われたこの名将を育てたのは、直政が井伊谷の城主として成長するまで一時的に家督を継ぎ、郎党と領土を守り切った井伊直虎でした。
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- 三島駅[山中城跡公園]
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- 三島駅[韮山城跡]
ただ、直政の果敢さがあっても、北条家ゆかりの城がそろって要塞堅固の誉れ高かったことは変わりませんでした。古くは、今川家の客将であった早雲が同家の家督争いで功績を上げた恩賞として与えられた「興国寺城」、北条家が滅亡を迎えることとなった小田原征伐の激戦地である「山中城」と「韮山城」。その史跡には当時の土塁や堀が残されており、往年の合戦の名残を今に伝えています。また「長浜城」は、北条水軍の基地であった変わり種。今では美味なる海の幸で多くの観光客を引き寄せる駿河湾ですが、直政が活躍したこの時代は、意気盛んな兵(つわもの)たちが刃を交えた合戦の地でもあったのです。
秀吉によって天下統一は果たされましたが、その秀吉が10年足らずで病没したこともあり、戦国の世はまたしても激動の時代に。天下分け目の決戦となったのが、言わずと知れた「関ケ原の戦い」です。家康率いる東軍が圧勝したのは、周知のとおり。中心人物として活躍した直政は、合戦での奮迅だけでなく、その前後の調整役・処理担当としても奔走しました。この功労により、直政は、西軍の総大将・石田三成の領地であった近江国(現在の滋賀県)佐和山を受領。後の彦根城を築く礎をつくり、その彦根藩の初代に列せられることとなります。残念ながら、徳川幕府開府の前年である慶長7(1602)年、関ケ原の戦いで受けた鉄砲傷の悪化により、直政は42歳の若さで死去します。家康は直政の長年の忠義を忘れることなく、引き続き井伊家を重用。徳川幕府を盤石のものにした「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」では、直政の次男・直孝を抜擢します。直孝は家康の期待に見事に応え、秀吉の側室・淀君と、その子・秀頼を自害させる責務を完遂。その後もさらなる功を立て、井伊家は家康の将軍職を継いだ秀忠からは大老職を、3代将軍・家光からは30万石もの加増を受け、徳川幕府が終焉を迎えるまで一度の国替えもされることなく、譜代大名の筆頭格であり続けたのでした。
井伊谷という山間の領地から始まった井伊家の歴史。徳川四天王のひとりとなった直政が花咲かせ、その子・直孝により揺るぎない実を結んだ栄華は、主家・今川家の圧力にも屈せず一族を守り続けた女城主・直虎が繁栄の種をまいたものでした。
井伊谷が広がっていた遠江(とおとうみ)――現在の静岡県には、井伊一族を存続させ、盛り立てんと願った直虎たちの気概が見えるような史跡が数多く残ります。ぜひ一度、訪れてみてください。歴史ファンならずとも心を動かされるスポットであること請け合いです。
2017年7月24日更新
2017年7月24日更新

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