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東海道横断特集
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- 東海道の宿場町を歩く 01


小田原駅 [箱根関所・箱根関所資料館]
江戸日本橋から京三条大橋までをつなぐ東海道。その全長は約126里(約492km)に及びますが、当初は軍事上の目的から整備されました。しかし、戦乱がなくなるに従い、政治・軍事の道から、やがて多くの人々が旅する庶民の道へと変化します。当時の面影を宿した遺構を訪れ、
いにしえの旅人気分を味わってみてはいかがでしょうか。


豊橋駅 [二川宿本陣資料館]


浜松駅 [新居宿 旅籠「紀伊国屋」]


豊橋駅 [二川宿本陣まつり]
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東海道を整備した理由とは
東海道を整備したのは徳川家康です。関ヶ原の戦いに勝利した家康は、本城のある江戸と、朝廷や豊臣氏の居城のある京都や大阪との連絡を迅速に行うため、慶長6年(1601)に「東海道の宿場制度と伝馬制度」を発布。江戸日本橋から京三条大橋に至るまで、53の宿場がつくられました。これがいわゆる「東海道五十三次」(※「次」は「宿場」の意味。西国の大名の記録などにはさらに大津でわかれて大阪までの五十七次を東海道という記述もある。)であり、寛永元年(1624)に完成しました。
街道の拠点「宿場町」
宿場とは宿、宿駅とも呼ばれ、幕府に定められ街道の拠点となったところです。旅人を泊めたり休ませたりする場所であるのはもちろん、公用の書状や荷物を出発地から目的地まで速やかに運ぶために、宿場ごとに人馬を交代して運びました(伝馬制度)。つまり宿場町とは、本陣、脇本陣、旅籠(はたご)、木賃宿などの宿泊機能と、継ぎ送り業務を行う問屋場(といやば)を中心に形成された流通機能を持つ町のことを指します。
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「東海道五拾三次之内 品川 日乃出」歌川広重(静岡市東海道広重美術館蔵)
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「木曽海道 六拾九次之内 大津」歌川広重(静岡市東海道広重美術館蔵)
参勤交代により宿場が発展
江戸時代は約260の大名がそれぞれの藩を治めていましたが、寛永12年(1635)、「武家諸法度」が定められ、大名の参勤交代が始まりました。これは毎年4月を交代期として、全国の大名の半ばが江戸に1年間住み(参勤)、半ばが国許にいる(交代)制度です。服属儀礼であり、参勤しないと幕府への反逆とされました。
参勤交代は予算の調達から行程の調整、宿代の交渉まで、準備は半年以上も前から行われました。大名は兵力として配下の武士を大量に引き連れただけではなく、かかりつけの医師や、茶の湯の家元、鷹匠などが同行し、大名専用の風呂釜などを含む多数の手回り品までもが準備され、「大名行列」という大掛かりな行進が行われました。また民衆に威厳を見せつけるため立派な服装を身にまとい、1日平均6〜9時間、約30〜40kmを移動したとされます。
この参勤交代により、全国の主要な街道が次第に整備され、宿場が発展し、文化と情報が行き渡りました。なかでも東海道は東海、近畿、西日本の大名が参勤交代のために利用し、大名行列が頻繁に通った道でした。-
小田原駅 [箱根大名行列]
庶民も旅を愉しむ時代に
街道の整備、宿場町の充実が進むと、道中が安全となり、経済力をつけた町人などの庶民も旅を愉しむようになりました。
例えば、江戸中期に人気があったのは「伊勢参り」です。彼らは菩提寺の住職や役所に願い出て、「通行手形」をもらいました。これがないと関所の通行ができなかったからです。
また幕末には集団での「伊勢参り」が熱狂的に流行しました。-
浜松駅 [新居関所]
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身分で分けられた宿泊施設
宿場町は、身分により泊まれる施設が分かれていました。それが本陣、脇本陣、旅籠(はたご)、木賃宿です。広重の版画にも見られるように、いずれの宿にも客引きがおり、熾烈な客の奪い合いがされたそうです。
現在は残念ながら宿場町の衰退とともにほとんどが消滅してしまいましたが、なかには消失を免れて保存されたり、復元されたり、資料館として開放しているものが少なくありません。
- 本陣
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本陣とは、大名・宮家・公卿・幕府役人・高僧など身分の高い者が宿泊する施設です。宿泊施設のなかではもっとも権威があり、門、玄関、書院をもうけることができました。また主人は苗字帯刀(みょうじたいとう)が許され、宿場の最高身分でもありました。東海道全体では109の本陣があったと伝えられ、現在では二川宿、草津宿などで改修・復元された本陣を見ることができます。
- 脇本陣
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脇本陣とは、本陣の予備の宿泊施設です。ここは大きな藩で本陣だけでは泊まりきれない場合や、複数の大名などが重なった場合に使用されました。規模は本陣よりも小さいですが、諸式はすべて本陣に準じています。また本陣と同じく、宿場の有力者が主人を務めました。大名の利用がないときは、一般旅行者も泊まれたそうです。舞坂宿の脇本陣は、旧東海道では唯一の遺構です。
- 旅籠・木賃宿
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一般の旅人は旅籠か木賃宿を宿泊施設として利用しました。旅籠はもともと馬の「かいば(馬の餌)」を入れる籠の総称で、転じて宿場で出される食事の意味になり、食事を提供する宿屋を旅籠屋、略して旅籠と呼ぶようになりました。木賃宿は宿から薪を購入して自炊する施設のことで、旅籠より安く泊まれました。東海道で旅籠の数が一番多かったのは宮宿で、最盛期には250もの旅籠が軒を並べていたそうです。以下の旧旅籠は昔の街道の宿場に現存し、一般公開されています。
- 関所
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関所とは、「入り鉄砲に出女」といわれるように、江戸方面への鉄砲の流入と、江戸住まいの大名の奥方が許可なしに国許に帰ることを厳重に取り締まるための施設でした。東海道は箱根と新居の2ヶ所に設置され、新居は全国でも唯一当時の建物が現存、箱根の関所も復元公開されています。また東海道の脇道「姫街道」の気賀関所も再建されています。
大名行列でよみがえる時代風俗絵巻
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- 小田原駅 [箱根大名行列]
- 観光スポット情報
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参勤交代の大名行列は幕府によって人数が定められており、一万石の小大名でも50~100人、尾張藩・紀州藩などは総勢300人余に及ぶ大行進で、延々数キロにも及びました。いちばん規模が大きかったのは百万石の加賀藩で、最盛期に4000人を数え、殿様用の風呂の水まで運んだと伝えられています。
東海道周辺ではこのような大名行列がイベントとして行われています。「下にー、下にー」という大きなかけ声とともに、江戸時代の参勤交代をしのぶ行列が旧東海道や温泉街を練り歩く姿は、タイムスリップした気分を味わう貴重な機会となるでしょう。
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2015年5月22日更新
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