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- 05.三英傑の夢と日本の未来
05
- 三英傑の夢と信念が歴史を変え、日本の未来を拓いた奈良大学 文学部 文化財学科 教授 千田嘉博氏
未来クリエイターとしての役割を担った三英傑。
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三英傑が活躍した時代は争乱の最中。足利氏が治めていた室町幕府の力が衰え、各地では大名たちが互いに争う群雄割拠の世となっていました。そうした中、信長、秀吉、家康は日本を改めて統一するという大事業に乗り出しました。まさに、新しい日本を創造するという偉業に向かって歩き始めたのです。
三英傑がどのような夢を抱き、信念を持って時代を切り拓いていったのか。それぞれにとって大きな転機となった町 “清須” 、その中でもかつての城跡を望む、現代の「清洲城」でその足跡を辿っていきます。 -
- 清洲城
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- 清洲城の前で三英傑の話をする千田嘉博氏
改革者として、歴史を変えていった織田信長。
- 織田信長画像(部分)(豊田市長興寺所蔵/写真協力 豊田市郷土資料館)
1555年、那古野(なごや)城から清須城に入城した若き信長は、その5年後、この城からわずかな軍勢で今川義元の大軍を破った「桶狭間の戦い」に出陣。天下統一をめざす大きな一歩を踏み出しました。破竹の勢いで各地を制圧・平定するとともに、信長は自らがめざす日本をつくるために、それまでの慣例に縛られることのない改革を行っていきました。
多くの既得権を持っていた商工業者の組合組織 “座” に縛られることなく、誰でも自由に商売を行えるようにした制度「楽市楽座」もそのひとつ。家柄によって人生が決まってしまうのではなく、一人ひとりが持っている能力や技術を重視して登用したのも大きな特徴です。さらに、宣教師と交流したり、伝来した鉄砲を大量に用いた戦法を「長篠・設楽原(したらはら)の戦い」で用いて武田軍を撃破するなど、新しい情報や技術を積極的に取り入れたのも信長ならではの施策。その歩みから、新たな時代を開拓していった改革者としての姿を読み取ることができます。
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- 楽市楽座制札(岐阜市 円徳寺 所蔵)
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- 長篠合戦図(犬山城白帝文庫 所蔵)
平和な時代へ、大きく舵を切った豊臣秀吉。
- 豊臣秀吉画像(部分)(高台寺所蔵)
秀吉にとっても、清須城はその後の人生を大きく変えた重要な場所。本能寺の変によって亡くなった信長の後継者を決める会議、「清須会議」が柴田勝家を始めとする重鎮たちを集めてこの城で開かれました。そして、会議での議論に打ち勝った秀吉は、天下人への階段を駆け上っていくこととなります。
改革者であった信長の後を継いだ秀吉は、その足跡をなぞって歩くとともに、独自の考えに基づいた施策も次々と打ち出していきます。例えば、多くの人々の帯刀が戦乱の元になっているとし、「刀狩り」によって武器を持たない世を実現。統一された基準によって田畑を測量する「検地」を行い、税金をその面積に応じて公平に徴収する税制改革も行いました。さらに、大名が勝手に戦さを行うことを禁じた「惣無事令(そうぶじれい)」を発令。揉め事があれば、いまでいう裁
判によって解決することを定めたもので、平和な時代へ舵を切る大きな分岐点になりました。敵であっても降伏するならゆるし、その能力を生かして活躍できる場を与えたのも秀吉らしいところ。多くの人の力とともに平和な日本を実現するという未来像が、具体的に浮かび上がってきます。
- 清須の町を見渡す天守で話す千田嘉博氏
いまに続く泰平の世を創造した徳川家康。
- 徳川家康画像(部分)(久能山東照宮博物館所蔵)
信長の時代の清須城には石垣がなく、櫓や門の屋根は板葺きという館城で、室町時代の将軍の館を手本にしたものでした。その後、信長の次男、信雄によって大改修された清須城は石垣、そして絢爛豪華な天守を備えた最先端の名城に変貌。清須もあらゆる機能を備えた城下町として栄えていました。しかし、 “関東の巨鎮” と称された清須の限界を読み、清須城を廃城にするとともに、清須の町自体を名古屋の台地の上に移動させるという大きな決断を下したのが家康でした。
この、いわゆる「清須越」の主な要因は、東西が激突する軍事拠点としての弱さが町にあったこと。さらに、その先を見据え、争いがなくなると防御のための堀や土塁が無用になるだけでなく、町が成長・拡大するためには大きな妨げとなっていたことでした。新たに完成した名古屋城と名古屋の町は、こうした課題を解決しながら、政治や経済の拠点としてどのような姿であるべきかという家康の考えを形にしたものだったのです。また、家康は信長、秀吉の動きをよく見ており、個人の力だけでは政治を安定して運営することはできないと考え、組織の力で政治を動かす仕組みを整えていきました。こうして、およそ300年にもわたる泰平の世の礎を築いた家康の歩みは、まさに未来クリエイターとしての足跡そのものでした。
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- 清須城周辺ジオラマ
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- 名古屋城
思い描いた未来像と強い信念が、未来クリエイターへの道。
- 奈良大学 文学部 文化財学科 教授 千田嘉博氏
三英傑はそれぞれの夢を追い求め、新しい日本をつくるという大事業をおよそ400年前に成し遂げました。しかし、最初から “成功” という結論が決まっていたわけではありません。失敗や敗戦を何度も経験し、その度に立ち上がり、夢をかなえるために戦ったからこそ天下を治めることができたのです。
この事実は非常に大事なことです。私たちも、自分自身の未来が決まっているわけではありません。だからこそ、かなえたい未来を思い描き、強い信念を持って日々を積み重ねていけば、信長、秀吉、家康のように400年後に評価されるような未来クリエイターになることが可能かもしれません。愛知県には800を超える城跡が残っています。その中には三英傑ゆかりの城も多くあります。また、長篠・設楽原の戦いの史跡をはじめ、歴史に残る戦場跡も点在。三人が生きた時代の貴重な品々を鑑賞できる徳川美術館もあります。それらを訪ねると、一人ひとりがどんな夢を持って生き、戦ったのかを五感で体感することができます。そして、感じとった思いは、私たち自身の未来を切り拓くための大きな原動力になっていくはずです。
「きよす」の表記について : 文献などにおいて「清須」「清洲」の両方が見られ、古くは「清須」、後に「清洲」の表記が多くなっています。ここでは清須越を境目とし、それ以前の町名を「清須」、城を「清須城」と表記しています。なお、現在の施設については「清洲城」と固有名称のまま表記しています。
奈良大学 文学部 文化財学科 教授 千田嘉博氏
1963年愛知県生まれ。城郭考古学者、大阪大学博士(文学)。中学時代、姫路城に感銘を受けて城郭に興味を持ち始める。その後、奈良大学にて文化財の研究を進め、卒業後は名古屋市見晴台考古資料館、国立歴史民俗博物館を経て2009年より現職。2012年にドイツ・テュービンゲン大学の客員教授、2015年に城郭の考古学的研究で第28回 濱田青陵賞を受賞。テレビドラマの城郭考証も務める。
インタビュー対象者の肩書は取材当時のものです。
2017年9月8日更新